親鸞聖人|親鸞会

親鸞聖人の教えとは?

 親鸞聖人は、約800年前、京都にお生まれになり、90歳でお亡くなりになりました。今日、親鸞聖人の教えていかれた教えを「浄土真宗」と言われます。

 その親鸞聖人のみ教えをひと言を表された言葉が
「平生業成(へいぜいごうじょう)」
です。

平生業成と親鸞聖人

 ある夏のイベントでのことでした。猛暑が続く中、その日は朝から雨降りでした。初めの挨拶で責任者が、申し訳なさそうに第一声。
「せっかくお集まりいただいたのに、私の“平生業成”が悪かったから、こんな天気になってしまいました。どうもすみませんでした」
「別にあなたが悪いのではありませんよ」と誰もが思ったに違いありませんが、ここで気になるのは、「平生業成」という言葉の使い方です。これは「日ごろの行い」という意味で言われています。

「平生業成」とは、親鸞聖人の教えを一言であらわす、いわば一枚看板です。その「平生業成」が、本来とは全く異なる意味で使われているとすれば、世界の光 である親鸞聖人の教えが、正しく伝えられていないからと言えます。

「死んだらお助け」が仏教ですか?

 仏教と聞くと、死んでから用事のあるもの、という考え方が常識になっています。一般の生活で、仏教に触れる機会といえば葬式や法事の時だけで、「死者を どう弔うか」が仏教の役割だと、ほとんどの人が思っているのではないでしょうか。月命日の読経も、盆や彼岸の墓参も、亡き人の「供養」のためでしょう。

 その中、「葬式は要らない」と主張する本が出版されたり、ある流通大手の葬儀紹介サービスが「戒名」の金額に目安を設けたりすると、寺院・僧侶が「いや葬式は要る」「宗教介入 だ」と猛反発します。これも「死者の供養」が自分の仕事、と心得ている表れに違いありません。そして「死ねばだれでも仏になれる」と説かれているから、仏教 は死後の救いを教えたもの、という仏教観は常識のようになっています。

 ところが親鸞聖人は、当時も蔓延していた「死んだらお助け」の根深い誤解を徹底的に正され、
「仏教は平生の教えだぞ。死んでからではない、
 生きている人に説かれたのが、釈迦の教えなのだよ」
と、現在の救いを強調された方であったのです。これが「平生業成」の「平生」ということです。

 事実、仏教を説かれたお釈迦様ご自身が、一切仏事は行われていませんし、親鸞聖人も死者の供養を全くされなかったことは、有名な『歎異抄』の、
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」
(第5章)

「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことはない」
のお言葉によっても明らかでしょう。

 生きている人を、真の幸福に生かすのが仏教であることを、生涯、叫び続けていかれた方が親鸞聖人なのです。

「人生の大事業」って何だろう?

 次に、「平生業成」の「業」とは、人生の大事業のことです。大事業といっても、宇宙にロケットを打ち上げたり、新幹線や高速道路を建設したりすることではありません。

「人間に生まれたのは、これ一つ成し遂げるためであった」
という人生の目的を、漢字1文字で「業」と親鸞聖人は言われているのです。
せっかく人として生まれ、生きているからには、だれもが
「死ぬ時に後悔したくない」
「生きてよかったといえる人生を送りたい」
と、切に願っているのではないでしょうか。ではどうすれば、何を成し遂げれば、大満足できるのでしょうか。

「人身受け難し、今已に受く」
仏教を説かれたお釈迦さまの宣言です。
「生まれ難い人間に、生まれることができてよかった」
という喜びの発露であり、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜です。

 人間に生まれることはいかに有り難く喜ぶべきことか、有名な「盲亀浮木の譬」で教えられています。

“たとえば大海の底に、100年に一度海面に浮かび上がる盲亀がいたとする。海面には真ん中に穴のある丸太ん棒が一本浮遊している。100年に一度のチャンスに、盲亀が浮木の穴に頭をひょこっと出すことがあろうか”

“さようなことは考えられません”

 弟子の阿難が答えると、
“だれでも、全くありえないことだと思うだろう。しかし、限りなき歳月のうちには全く無いとは言い切れぬ。人間に生まれることはそれよりも有ることの難いことなのだよ”

 ところが、その人間に生まれたことを、恨んだり、後悔したりしている人が少なくありません。「こんなつらいのなら死んだほうがましだ」と自ら命を絶つ人 も、年間3万人を超えています。

  何のために人間に生まれてきたのか、何のために生きているのか。なぜ苦しくても生きねばならないのか、という、「生きる意味」「人生の目的」が分からないからではないでしょうか。

「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」と、人生の目的を達成させていただいた時にこそ、
「人身受け難し、今已に受く」
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜が起きるのです。その釈迦の教えられた「人生の目的(人生の大事業)」を、親鸞聖人は「業」の一字で表されているのです。

「え、人生の目的に完成がある!?」

 最後に平生業成の「成」は、完成の「成」です。人生の大事業には、完成した、達成した、卒業ということがある、ということです。

 親鸞聖人は90年の生涯、
「人生には、これ一つ果たさなければならないという大事な目的がある。
 それは現在完成できる。だから早く完成しなさいよ」

と教えていかれた方ですから、その親鸞聖人の教えを「平生業成」の教えといわれるのです。

「え!?人生の目的がある、完成があるって?」
 驚くのも無理もありません。

「そんなバカな、どうかしてる!」
 非難する人があって当然でしょう。「死ぬまで求道」が常識だからです。

 人生は、終わりなき旅路。死ぬまで求め続けるもの。完成したと思ったら進歩がな い。仕事も趣味も、政治、経済、科学、医学、倫理、道徳、法律、文学、芸術、スポーツ、どの道も、「これで完璧」ということはないからです。どんな世界にも、「完成」はありません。

 その中、親鸞聖人だけが、
「人生の目的には完成がある、達成、卒業があるのだ」
と断言されるのですから、
「そんなこと、あるものか」
と猛反発が起きるのも当然でしょう。四面楚歌の中、たったお一人で、「平生業成」の弥陀の本願を明らかにすることに生涯、徹していかれたのが親鸞聖人です。

 この弥陀の救いにあい、いつ死んでも浄土往生間違いなしの身になることが真の人生の目的なのです。

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